水に浮かぶこころ

英国在住アーティストが綴る不思議なドキュメンタリーストーリー

赤ん坊は恐怖を理由なしに感じる

初夢

Artwork by Satoshi Dáte

僕は幼児になってた。4歳くらいかとても小さかった。

 

なにやら色をつかって必死に画用紙に抽象的な「もの」を描いている。 赤かオレンジか青。 たくさん色を使っていたようだ。クレヨンか色鉛筆を使って手を汚しながら明日死ぬかのように描いている。

 

そこで僕は悲しみを感じて描いている。不安を感じて描いている。 頭がはち切れそうな気持で書いている。

 

僕の前には母親かおとながいる。父親か大人の男性がいる。

 

僕は構わず描き続ける。

 

「大人は、絵を描く子供は楽しんで描いていると思うだろう、でもちがう、子供のころは苦しみを感じながら描くのだ」

 

それに気づいた

 

と僕は確信して必死で描いている。

 

目が血ばしっていたかもしれない。(前日目が血走ってる人間に殴られた、目がぴったりあったのでその怒りが自分に投影されたのかも)

 

まわりの大人たちは何をしているのかわからない、僕の絵画の制作に協力してるようにも思えなかった。ただかれらは大人の会話をしているだけだ。

 

そこでぷつんと切れるような四面楚歌を感じた。

 

だれもわかってくれない、誰も感じてくれない、完全なる孤立した自分。

(これは昨日殴った人の気持ちかもしれない。自分の子供のころ感じてたものかもしれない)

 

そして僕はあまりもの苦しみと悲しみと抑圧で絶えられず涙を流し始める。

その泣く力をもエネルギーにして僕は手を進める。

 

「殴り」描くように。

 

画家やアーティストは常ににこにこしながら何か表現するわけではないとは思う。

 

近代のコンテンポラリーの作家は、なんだか頭の中で考えて、アーティストのふりでもして、 片手は胸の前に、もう片方の手はL字を組むようにして、ほっぺに顔を当てて、あたかもすべてを知っているかのように、わけのわからないインスタレーションなりパフォーマンスを聴衆のまえでくりひろげるのだ。(聴衆がいなかったらこの人たちは物を作るのか?)

 

ムンクなんて古い!と彼らはいうかもしれない。

 

「病める子」を描いたとき、ムンクは失恋をし、叶わぬ恋を感じながら、絵の具をぶちまけた。

 

表現をするということは、必ずしも喜びをつたえるだけじゃなく、苦しみも伝える。その苦しみはまさに「描く瞬間」に感じないとでてこないかもしれない。

 

赤ん坊である僕はそれを僕に伝えたかったのか?

 

こうしてブログに書かせて、みんなに伝えたかったのか?

 

そしてみんなは忘れている。

 

わたしたち幼児の時はとてもつもない不安と恐怖がつのる。 だから泣く。 ぼくら大人が、だれかに裏切られたり、失恋したり、傷つけられただけで泣いたりしない。

 

僕らは思考して、考えて泣くのだ。

 

頭でっかちで、ぐるぐるとめぐりめぐって、泣くのだ。

 

しかし幼児はそんな思考回路はない、魂から感じた、なにかの恐怖。そういったものを直で、

 

いわば脳という防御策である膜すらないために、くるしみを感じてしまう。

 

こどものときの恐怖はぼくらは忘れがちである。それがトラウマとして変形してやってくるのだろうか。

 

この現世界に頬りだされた恐怖。 宇宙全ての闇の恐怖。そういったものを直で感じる。

 

喜びの深さも限りなく、そして悲しみも限りがない。

 

その両極端を子供は感じるのだ。

 

純粋であり、子供の心を持ちながら大人でいることは

 

実際はとても大変なことなのだ。

 

だからこそ創造性と純粋さを保つアーティストは赤ん坊のようなこころをもっているのだ。

 

そして僕は全ての人間がアーティストでいてほしいと思う。 

 

嫌な言い方をするかもしれないが、アーティストでない人間は赤ん坊の時に感じた真実というものをみてみないふりをしたいための選択ではないだろうか?

 

これからどんどんとアーティストは増えていくと思う。

 

みんながみんなアーティストであり、哲学者であり、心理学者であれば、よのなかは うまくまわる。 政治も経済も国際情勢もいらなくなるのだ。

 

すべては、大きな高層ビルも、タワーマンションもこの深い深い喜びと悲しみから逃れるための言い訳でしかないのだ。