イギリスにもどり2日目
広がった空間に細い道があり、僕は外にいる。
彼女がもう一人の子供を結局は産んでしまうという事が不安要素につながる。
「やっぱりか」
ぽっかりと空いた心の穴と熱くなる自分の胸と背中。
どうしようもない中で、僕は説得をしようと試みる。
彼女は電話をしたり別の場所に言ったり、もう二度と会えないようなそぶりをしたりする。
誰かから聴いた話だと、彼女のパートナーはあまりやさしくないようだった。
彼女がちかくかんじたとき、人が数人行き来するような開けた街中の小さな十字路の近くで、僕らは抱き合った。
涙している彼女は従妹のMのようで母親のような気もした。僕は涙にふれないようにキスをする。
彼女の子供は彼女の手の中にあるがすこし前方の宙に浮いているようにも感じた。
僕は漫画「ディスコミュニケーション」(彼女はこの本が好きで、主人公が僕の様だといった。そしてヒロインも彼女に似ていた)のシーンのように、
僕は彼女の涙を飲んだ。
「彼はあなたみたいにやさしくしてくれない」という。
「彼は優しくしてくれないの?」と僕が聞くと
「同じように優しくしてくれる」と返される。 僕の不安がよぎると、夢を自分が操作するように
「あなたのほうが優しくしてくれる」
と自分が比較したいかのように(人を比較することはよくない、なぜならそれがすべてではないから)彼女は答えた。
お互い抱き合い、もうすべて大丈夫な気がした。
こういった夢は初めて見る気もする。
*自分は子供を持つことに恐怖を感じる。結婚することにはなにも恐怖を感じない。
それはだれしもがもつことなのか? 自営業でアートや音楽をやっていることに、社会の抑圧はビジネスマンより強いだろう。
そんな自分が恐くて、こんな状態で子供を持つことが恐怖でしかない。自分がいるのかもしれない。
その一方で「絶対に」自分の愛する人との子供が欲しい。とも思う。
それは絶対にほしいと思う、思いが強いからこそそういった恐怖感を感じるのかもしれない。また絶対にほしいからこそ、 そこから逃げ出すために、オーガナイズされていない人生を自分がわざとつくっているのかもしれない。
この夢ではそういった思いが隠されている。 ああ、これで楽になれる、恐いけれど二人で頑張れば、大丈夫。
だけどこれからいったいどうしていけばいいのか。
子供を持つと、いろいろな不安が重なる。
嬉しくて、幸せでたまらない自分がいて、その一方でどうしたらいいかわからない。どうしたらいいかわからないからこそ、それをぶつける大人たちはたくさんいる。その不安を消すために、習い事や勉学やら押し付けて、「自分パート2」をつくろうとする。
そう自分が成し遂げれなかったトラウマからの解放をあたかも、子供がそれを消し去ってくれるかと錯覚する。
子供を産んだとて、なにも解決することはない、学ぶことは多くなるだろうけど、子供が成長するにつれて、その使命を忘れる。そして彼らを大人扱いして、純粋さを消して、本来自分が子供と向き合い、解決しなくてはいけないトラウマをみつめようとしない。
赤ん坊の時がいちばん自分のトラウマ回復に役に立つと僕は思う。
もちろんその後も子供たちと一緒に自分をみつめて、子供たちを一個人として尊重してお互い成長していくことができる人であれば、よりよい人生が歩めることは確かだ。