受動的ではなく能動的な事を毎日する。
魔法は突如使えるようになる。
自分とっての本当の魔法を使えるようになる。
無かったものを存在させたり、不可能を可能にする。
一度僕はセントマーティンズで敬虔なキリスト教徒に会った。
「神様はなんでもしてくれるのよ、お腹がすいたら、ご飯が出てきて、お金がなくなったら、お金がやってくるの」
そんな馬鹿な話があるか。 スピリチュアルを通り越してこれはオカルトだ。と思った。
でもこれは一概にもはったりではない。
希望を持って、信じて、何かに没頭すれば(ただ怠けてて願ってもなにもふってきません)。
必ず、びっくりすることがやってくる。
実際僕の人生でたくさんやって来た。
魔法と言うと不思議に思うかもしれないけど、本当に魔法のようなものだ。
僕の描いている絵をみて、魔法の様だと僕の生徒が言ったように。
創造性と偶然性や輝かしい未来を作ってくれる、不思議な現象は、密接に関係していると思う。
私たちは毎日ある意味、魔法の扉をつくり、開いて、くぐり抜けて、魔法の世界に行って何かをもらってきてる。それが積み重ねで自分の備えになる。
毎日だらしなくならなければ、挑戦していれば、人のせいにばかりせず、殻に閉じこまらず、親の言いなりなったり、社会の言われた通りに生きたり、友人の意見ばかり聞いていなければ、きっと道は開かられる。
今思えば、それだけはたして頑張っていただろうか?そんなポジティブに考える余裕があったのだろうか?とは思うけれど。 とりあえず僕は精神疾患にならなかったし、自殺しなかったし、魔法の扉は確かに開いた。
そしていま楽しく生きている。
信じれば救われる
ではないけれど。昔からキリスト教でそんな言葉があるのは何かしら意味があるのかなと思う。
自分を堕落させないで、耐え抜いて、そう。それは魔法の扉が現れるのではなくて、自分で作ってそれをくぐり抜ける。
どんな方法でもいいから。
そのあとに自分の必要なものをその扉の向こうから得ることができて。現実世界で活用できる。
でもそのもらった道具や武器や防具は、正に魔法。消えてなくなってしまうものかと思う。
ボストンの出来事が一番僕にとって密なものだけど。だからといって今あの時の勇気やモチベーションがあるかと言ったら疑わしい。だから常に思考して行動して生きていかないといけないと思う。
だから、
人
という漢字は常に歩いているように見えるのかもしれない。