ずっと寝ている6人の子供
シェアハウスと言うのを小学校2年生で経験できるとは願ってもいなかった。僕は最初は6つあるベッドの中の真ん中のベッドだった。 なぜか時々移動があった。 たぶん、自分で看護婦さんに頼んで誰かが退院したらその人のベッドにうつって良いか頼んだんだと思う。
入院したては、かなり弱っていたから、どこに寝ても同じであった。ほとんど日中も寝ていたのでカーテンを常にしていた。
シェアはいいけど、壁がない。
しかし部屋があるだけいい。 イギリスの病院なんて部屋もない。ところがあった。
廊下も部屋も一緒の大きなへやに、何十人か散らばっているのだ。 そうそう、よく戦争映画でみるようなあんなベッドである。 カーテンは一応あったけど、あれを見たときまだ僕はましだったなと思った。
くるしくて、ふてくされてて、もはや何もかもがどうでもよくて、
まるでイギリス小説「秘密の花園」に出てくる病床のコリンのようだった。
光がうるさく、人の声も動きも気になった。 体も精神も必要以上に敏感になっていた。その繊細さがうまれもったものでなくて、ここで培われたのかもしれない。
小さな音でもおなかに響いたのだった。合気道の稽古、歌を歌うときにやたらと丹田とかおなかのことを意識して、今ではそこが全ての中心になってる気がするけれど、この病気のときもまた、全てが悪い意味でそこが中心になっていた。
胃に人がいるというか、脳が胃の中にいるような、そんな不可解な気分がずっと24時間続いた。 気持ち悪いので何度も吐いていた。
自宅にいたときによく吐いていた記憶がある。 母親がはくたびに心配そうにするのでなおさら自分の体が心配になった。
母親がいなくては生きていけない僕であったが、苦しすぎてそれどころではなかった。
この後退院したら、また母親べったりにもどってしまって、小学校5年くらいまでは母親が夜いないと恐くてしょうがなかったのが続いた。
しかし、病院にいたときは大丈夫だった。よく母が今でも
僕が「もう、いいよ…」と死にそうな声で、母親に帰っていいよと伝えるのが心苦しくて堪らなかったと言う。
面会時間はそんなに長くない。ほとんど毎日僕のところへやってきてくれたが、よくそんな暇があったものだと思う。
大好きな叔父さんが来たのも嬉しかった。
父が背広で来たのは不思議だった。会社の前だか後でやってきたんだと思う。 なんだか自分が死後の世界にいるような、訪問者がいて、僕は何か別世界にいる気がした。
時間が限られているので、映画で見た牢屋にいる気もした。
外界と閉ざされた世界。
そういえば祖母だけは来なかった。 母はそのことについて今でも憤慨している。 健康な女性だったので、人の痛みがわからないのだとよくいっていた。
人の痛みを知るためにも、人は苦しみを味あわなければいけないのだと、つくづく思う。