水に浮かぶこころ

英国在住アーティストが綴る不思議なドキュメンタリーストーリー

いじめられっこといじめっこの癒しの場

真実の乖離の解消

Artwork by Satoshi Dáte

そんなわけで2024年、2回目の小学校同窓会に出席した。
 
正直緊張した。 みんなが一体どういう風に僕をみるのか? 昔冷たかった人はいまでも冷たいのか? いきなりグーでなぐられるのか?(なぐれたことないけど)
などいろいろな想像をしてしまった。

 
受付に行くと幹事の皆がいる。
「だっちゃんが来なかったらこの同窓会の意味がないんだからね!」
とても素敵になった女性の幹事にいわれる。  彼女は僕をだっちゃんと呼んでたのか。 そんな親しみがあったのか? と頭の中でそんな言葉がよぎりながら、まさか本当に僕のために開かれたとは思いもよらなかった。
 
それは彼女が言っただけで、もちろん今回は僕だけのためではないと思う。 今年の3月の会合ではみんなやはり緊張してたし、どぎまぎしていたようだ。
 
だから僕は一つ遅れてきてるから、今回は僕は緊張でどぎまぎしなくてならない。
 
そこで僕は、今までやってきたことをプレゼンする機会をあたえてもらった。もちろん全員が真剣に聞いていたわけではないが、意外と真面目に聞いてくれる人がいて驚いた。
 
僕のことを特に気にしていないと思っていた人が逆に僕の事をよく覚えていて、今の活動に関心を持ってくれたりした。自分の子供が今こういうことに興味があるから、あなたのしていることが興味深いと話してくれる人もいた。結婚しているけれど一人旅をしたいという女性もいて、色々な話があって面白かった。
ただ残念なことに、会の初めは男女で席が分かれてしまっていた。二次会ではその後の集まりでは男性女性はミックスされ僕はほっとした。 特に男性性女性性が強い日本では、小学校の時と同じになってしまうと懸念したからだ。
印象に残っているのは、僕が「話しやすくなった」と言われたことだ。小学校の頃の僕は自分の世界に入っているようで、邪魔をしてはいけない、話しかけにくい雰囲気があったらしいが、今は話しやすいと言われた。
 
そして先生も会に来てくれて、「あなたには自我があった」と言われたが、自信もなく、自己主張があるとは思っていなかったので不思議な感じがした。「一番変わった」ともいわれる。海外に住んでいればそれは変わるだろう。けれども逆に別のクラスメートには「アーティストになって話しかけづらいかと思ったけど、昔のままで嬉しい」とも言われた。
この場所に来る人、来ない人、思いは様々だ。
 
「自分がいじめた側だったから嫌われるのでは」と思って来ない人もいれば、「嫌な思い出しかない」と感じてこない人もいる。いじめた側は何をしたか覚えていないことが多く、ひどいことをしたことさえ忘れて、その酷いことを言った人に何食わぬ顔で普通に話していた場面があった。
 
しかし、過去に嫌な思いをした人でも、来てくれたら良いと思う。そう望んでいるクラスメートは何人もいた。 
 
小学校の思い出に悪いものがあったとしても、大人になった今、そこまでひどいことをする人はいないだろうし、そんな大人がいるとは考えにくい。みんなが集まっているところで、1人で誰かをいじめるなんて想像できない。
 
 
僕はいじられることが苦しかったでもいまは解放されて、自分自身でいられるようになった。そう言ったことを話してる人もいた。
 
ここはいじめた側、いじめられた側の癒しの場で(といってもそこまでひどい「いじめ」というものはうちのクラスにはなかった)、間違った印象や誤解の乖離を解消する場所であると思った。