水に浮かぶこころ

英国在住アーティストが綴る不思議なドキュメンタリーストーリー

なぜあなたは顔に傷をつけたくないのか?

手術で顔に傷が残る 

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Artwork by Fontana

そこまで大きな傷ができるわけではないのはわかっていたけど、傷ができることに大きなショックを受けた。 

どうやら僕はなにかしらハプニングがあるとそれが果たして自分にとって本当に嫌なことか、将来問題になるかもわからないのにショックを受けているようなきがする。

 

前にお医者さんに、「傷くらい生きてたらできるだろう」と言われた事があった。

まったくそうである。 女性だろうが男性であろうが、結局は老いていくのである。 「傷は男の子の証拠」という今ではとても性差別的な言葉だけど、傷なんて生きてたらできるだろう。

 

それがたまたま顔だっただけである。

 

顔だとなぜ嫌なのか。みんなに見られる機会がおおいからである。

なんならずっとマスクをしていたらいい。

ともおもったりもした。

 

いっそのこと、虚無僧みたいに、ずっとふかーい帽子をかぶって一生過ごしたっていいのである。

 

それをすることでわたしは有名人にもなれないし(なれるかもしれない)。外の世界にはでれないのだ。

 

なにかが制限されることに、恐怖をみな感じるのだろう。

 

傷が出来たことでわたしは「もう美しくない」と思うのだろう。

 

でもそんな「美」なんて結局は自分が作り上げた妄想でしかない。

 

だって、その人が本当に美しいと思う人はきずができたくらいで「美しくない」と思わないからである。 みんなに、「このひとは傷が」あるとおもわれ、 いわゆる陶器の「傷物」的に考えてしまうからではなかろうか?

 

人間に「傷物」なんてものがあるのだろうか。

 

傷が出来たらその人の価値がさがるのだろうか?

 

陶器は傷があれば壊れるかもしれない。

傷があることで「美しい」と思わないかもしれない。

 

でもぼくは傷があるもので壊れないのであれば使うし、美しくないとは思わない。

 

なにを気にするかは

 

「これをもってることでお客さんが来たときに差し出したら好まれない」

 

のでは?ということである。

 

これは人間にとってもおなじなのではなかろうか? いったいなんで個人的な美しさと、集合的意識の「美しさ」がこうも違うのだろうか。

 

僕はこれいこう本当に自分の顔がどうでもよくなった。

どうでもよくなったことで表情も豊かになり、人に好かれるようになった。

 

私達は間違いなく意識しすぎていると思う。