現実にいたくないから飛び跳ねる自分
自分を見失うことって、人生のうちに何度あるのだろう。自分の姿がぼわっとなくなって、写真に写っている自分がぶれている。そんな感じ。
見失うと自分の存在自体もあやしくなるのか?
混乱し始めると、詩に近くなるのか?
留学をしたことがあると言うと、日本にいる日本人は、
「へー、すごいなー」
という。
でもそんなすごいものなのか?
エージェンシーに頼らず、日本人に頼らず、日本人と住まずに飛び込んだ僕。
そのころインターネットなんてろくに機能していなかった。
なんだかわからずに、異国で踊り方も知らないのに踊り狂っている様なそんな感じ。
不安で胸がはちきれそうで、でもその不安定さが心地よい。
地面に足がついていないようだけど、自分の足を見たら、しっかりとついているのだ。
夢であってほしくても夢じゃない。
だから地面から足をあげて、飛びたくて、跳ねる、
でもやっぱり地面に足はついてしまう。
特に僕は自分に厳しくしたとはあまり思っていないけれど、その辺の具合は無意識に調整していたのだと思う。
ボストンで日本人に会いたくて、ゾンビのように日本人をみつけるために道を歩いたり。
そんなダサいことはもうしたくなかった。
イギリス人だって人間なのだから、かれらの世界にどっぷりつかって、彼らにハグしてもらえばいいではないか?
ハグしてもらうためにどっぷりつかるわけじゃないけど。なんとなく何かを克服すれば、新しい世界が広がるような気はしていた。
小さな光がみえるからこそ、私たちは前に進むことができる。
北ロンドンのキルバーンでフィルムカメラのオートシャッターを使って、踊っているように見える自分。