水に浮かぶこころ

英国在住アーティストが綴る不思議なドキュメンタリーストーリー

クレオパトラに逢った ②

核で集団自殺する1000年後の人類

神の恵みと悪魔の囁き。自我とは?

 

相手がどう思っているのか? 自分がなにか行動するときにむしろ それは考える必要がないのである。

 

もちろん 自分のことだけではなく相手のことを考えるべきではあるが、こういった場合、意思がはっきりしていて、しかも相手に失礼でない、 たいてい10分くらいの彼らの貴重な人生の時間を奪うわけだが(その程度ならいいではなかろうか?)、自分の意思に従った方がいい。

 

日本人は特に相手の事を思いすぎる。気を使いすぎて、勝手になにもしないで自爆する。

 

 

しかしこの綺麗な女性に話しかける理由は何であろうか? 美しいからであろうか? それとも 友達になりたいからだろうか? ただ単に 何かしら きっかけで話しかけられるような状態だったのからだからか?

 

 ただ何も考えずに話してそれで終わり。 それでいいじゃないだろうか?

 

 そこで話が弾まなかったらそこまでだ。 人と話す機会というのはそういうものだ。

 

はたしてこれは神がが与えてくれた 機会なのであろうか ? それとも悪魔が与えた時間の無駄、僕を欲望の渦へと巻き込もうしているのだろうか?  本当はただ彼女には性的魅力を感じているだけだったり、ただたんに男性性の征服欲があらわれているだけで、 ほんとにほんとに、彼女にはうっとおしく、おもわせ、その気持ちは世界中の人に広がり、1000年後にこれがきっかけで、段々とみんな鬱になって核で集団自殺することになるかもしれない。

 

 

悪魔のささやき、神のささやきということを人は良く言う。

 

 僕は悪魔のささやきは人のエゴであると思う。

 

神の囁きというのは天から来た何か、 恵みみたいなものだろう。

 

恩寵とでもいうのだろう。

 

 

もしそういうものがあるなら、自分というものは何なのだろうか?

 

自我とは何か?

 

自分ってものはその悪魔の囁きと天からの恵みの二つの選択から決断する人である。

 

では天からの恵みを常に聞いて行動している人が正しい人間なのであろうか?

 

ではその自我というものは何なのか? その選択というものは一体どこで決まるのか ?君はその選択をしたから 素晴らしいとか君は頑張ったとか、 みんなはそういう方向に行かなかったのにそっちの方向に行ったのは素晴らしいとか、勝手なことを言う。

 

では僕自身というのは一体何なのだろうか?

 

 決定をする媒体というだけなのだろうか だったらその神を信じて 正しいと思うところに進んでいく、それをずっとやっている人間が正しい人間なのであろうか。

 

僕はここでもまた決断を迫られてるのである。

 

いつその決断をするかタイミングというものもある。 

 

このクレオパトラみたいな女性と会った瞬間に話しかけても良かった。 

 

そして電車に乗った瞬間に話しかけても良かった。

 

しかし 僕はそれをしなかったのである。

 

 一体 それはどういうことなのだろうか。

 

 分析してみると やはり彼女を邪魔したくないと思ったところはある。 それは彼女自身が美人であるから、美人である人を邪魔することはよくない。 常に話しかけられる人であろうから、というのが一つ。 

 

そして自分自身自体があまり自信がない。 そんなときもあるのだ。といっても彼女も同じ有色人種ではないか。 

 

またこんなつまらなそうな人間と話して楽しいか? 私の自分否定的なところが浮かび上がってくる。 たとえそれで話が合ったとしてもそれが無駄ではないのだろうか?

 

しかししかし、話しが弾んで、この人ともしかしたらお付き合いをして彼女になるかもしれない!

 

 でもそうしたらそれでまためんどくさいことになるわけではないか? どうせそれで1週間ぐらいで僕は彼女に愛情を与えることはできなくなり。 単なるお姉さんもしくは妹になってしまわないだろうか? まったくもって 2人の労力を無駄にするのだ。

 

もちろん無駄なことなんていうものは人生には一つもないけれど、同じことを繰り返したくはないと思うものだ。 どっかーんと爆発的に今回恋に落ちたわけでもない。 ただ綺麗だというだけである。 かもしれない。

 

勘違いしてもらいたくないが、僕は恋に落ちたとか、彼女に興味があるとは一言も言っていない。

 

続く…