説教と説経
ほっそりした褐色の女性が彼女が見つけたテーブルつきベンチに座る。東京にそんな公園ないと思ってたけど。彼女はいつもここにくるみたい。これ以上開かないと思うくらいの笑みで。僕は日本語を教えた。周りには誰にもいなくて誰にも見えない場所な気がした。
外国人が掲示板を書き込むことができるフリー雑誌で知り合ったタイ人の女性と語学交流をはじめた。
30分30分で彼女は英語を教えてくれて、僕が日本語を交代に教えた。
そこでひと段落したら、仏陀についての話になった。
「日本人はみんな仏教徒って聞いたけど全然信心深くない」と
いわれ。
仏陀について色々聞かれてしまった。
幸い僕は仏陀の事は手塚治虫の仏陀を熟読していたので答えることができた。
「仏陀の本名知ってる?」と聞かれ
「シッダルタ。」 と答えた。
まさか代々木公園でタイ人の女性に仏陀クイズをされるとは幼い頃の僕は夢にもおもわなかっただろう。
彼女は少し満足したようだった。
けれどもこれには考えさせられた、インドに近い国はやはり敬虔な人が多いのだろうなと。そして僕らはいったい何をもって仏教徒というのかなと。いや誰も思ってないかもしれないが。
西洋人は「日本人は無宗教だというけど、実際に日本に来るととても信心深く感じる」と言うものだ。
ぼくらはなんちゃって仏教徒で神道徒なのだ。
人が亡くなった時や生まれたときはかなりの信心深さを現すけど、普段はあまり考えたりしない。
どちらにしても宗教とは一体どんな意味を僕らの生活にもたらすのだろうと考えてみた。
これからキリスト教のイギリスという国に行くわけだが... なんちゃってな僕がいったらなにかまた質問されるのだろうなと思った。
なんとなく彼女がしっかりした人間に見えてきた。
駅で僕らは買い物をした。彼女の靴を買いに行ったのだが、夏だからとはいっても彼女が靴を履き替えるときに裸足で歩いているのをみて、びっくりした。 やはり何か日本人と違う感覚なのだなぁと感じた。
日本人とは微妙に違う感覚を持っている女性を観察してとても興味深かった。
タイの友達はイギリスで増えたのだが、よくタイ人には仏陀についてのお説教をされる。